2022年4月30日

アトリエ・アイ様|地場の設計事務所と大工のコラボ 事務所兼住宅

2022-01-28 11.37.51-2.jpg
2022-01-13 12.00.29-1.jpg
設計:アトリエ・アイ
構造:木造・在来工法
敷地面積:81坪
延床面積:1F 21坪/2F 21坪(延床面積 42坪)
家族構成:夫 30代・妻 30代・子 年長(男)

お施主様が設計士なので、現場で色々と相談しながら進めていきました。  
床は1・2階共 杉の無垢板。
壁の仕上はドイツ製の漆喰系自然塗料。
自然素材で仕上げたお宅です。
間取りの特徴は1Fの半分程が土間。
土間の一部が事務所スペースで、そこを抜けると土間から
LDKへと扉の無い斬新な空間デザインです。
外観から想像するよりも広々とした間取りです。

2022-02-12 08.08.07.jpg
2022-01-28 11.37.40-2.jpg
2022-01-13 11.57.43-2.jpg

2022-02-12 08.05.32.jpg
2022-02-12 08.05.16.jpg
2022-02-12 08.06.34.jpg

2022-02-08 11.34.07.jpg
2022-01-28 11.38.42-2.jpg

  • IMG_9243.jpg
  • IMG_9244.jpg
お子様が素敵なプレゼントをくれました。 (工事中、保育園で大工さんごっこしていたそうです。)

嶋田家の長男として生を受ける

1979年1月13日
現在の浜松市南区である楊子町で生まれる。

旧国鉄の運転手だった父と、
保育士だった母、
2つ年上の姉の4人家族。

私が2歳の時に引っ越すまでは、
国鉄の官舎で暮らしていたと聞いています。
 
決して裕福な家庭ではなく、
子どもながらに、

ウチにはお金がないんだ

そう思っていました。

毎日忙しく働く両親で、
夕方になると姉と二人で晩御飯を準備し、
親の帰りを待つということも多くありました。

父は貨物列車の運転士で、
昼夜問わず勤務が不規則なため、
何日も顔を合わせないことも度々。

信念を持ち、
自身が正しいと思うことは貫く人で、

「筋道を立て、話し合いで解決するべきだ」

「暴力で物事は解決しない」

よくそう言っていたのを今でも覚えています。

そんな父が、
小学校で揉め事を起こした私に対して、

「自分が間違っていないなら謝らなくていい!喧嘩してこい!」

と言った事があり、
とても衝撃を受けました。

それに続いて言われたことが、

「ただし自分が間違っていたと思ったら、しっかりと謝りなさい。」

けれども当時の私は、
先に言われたことだけを胸に学校へ。

僕は絶対に間違ってない!

そう思っていましたので。

結果、謝ることはなく、
はっきりしたのは喧嘩の勝ち負けだけ。

父の言うとおり、
何も解決しませんでした。

喧嘩は学校の先生の耳に入り、
お叱りを受けました。

ただ、なぜそうなったのか、
話を掘り下げて聞いてくれることはなく、
先生に対して何かモヤモヤした違和感を感じました。

鬼コーチからの手紙

その出来事以外の小学校生活は、
ほぼミニバスケットボール。

全国大会に出場するような強豪チームだったので、
当然練習は厳しく、
家に帰るとすぐに寝落ちするような毎日。

当時はスパルタ教育という言葉が普通に使われ、
とにかく体力と精神論の世界。

ミスをすればケガをしそうなくらいの厳しい指導でしたが、
不思議と辞めたいと思ったことはなく、
メンバーも誰一人として辞めませんでした。

厳しい練習以上に単純にバスケットが楽しかったのです。

同学年のメンバーは160センチほどでしたが、
当時の私は身長が平均以下でかなり小さく、
130センチくらい。

なので私の役目は、
自陣から敵陣へのボール運び。

けれども自分は下手くそだと思っていたので、
毎朝1時間ほど早く学校へ行っては、
一人でドリブルの練習をしていました。

もちろん誰もいない体育館だったので、
このことを知っている人はいないと思っていました。

ところが知っていた人がいたのです。

それはチームのコーチ。 

コーチが見ていたことを知ったのは、
六年生の最後の大会も終わり、
後輩やコーチ、監督が催してくれた送別会の時。
 
渡された記念品の中に手紙が入っていました。

「お前のドリブルはチーム1番だ。

 チームの誇りに思う。

 自信を持っていい。

 毎日よく続けたな。」

そこにはそう書かれていました。 

ミスをすると、

「後ろ向け!ほうきとスリッパどっちがいい!」

なんて言って怖かったコーチ。

それまで褒められたことなどなく、
ビックリしましたが、
見ていてくれたこと、
褒めてくれたことが本当に嬉しく、
今でも心に残っています。

高校に進学するも・・・・・・

中学校の3年間もほぼ部活動で終わり。

技術や体育や美術の成績は良かったものの、
勉強の方はいまいち・・・・・・

それでも卒業が近づくと、
進路を決めなくてはいけません。

小学生のころから、
大工さんの仕事や木造建築に興味があった私は、
学校の課題で、

「好きな写真を持ってくるように」

と言われた時に、

薬師寺の西塔

の写真を持っていきました。

他の生徒たちが持ってきたのは、
自分の写真や家族旅行の写真。

何だかちょっと恥ずかしかったのを覚えています。

小学六年生の時に、
今の住居の新築工事が始まり、
上棟日が修学旅行と重なってしまったため、

「修学旅行は行かない!建前に行く!」

と言って、
あっさりと否定されたのも覚えています。

毎日のように作業場へ見に行き、
道具を勝手に触って怒られたこともありました。

そんな私を見ていたからか両親は、

「大工になりたいなら○○工業高校の建築科へ進んだらどうだ?」

と近くの工業高校を勧めてくれましたが、
私はこのころ大工になると決めていたわけではなく、
なんとなく高校に進学しなくてはという感じ。

なので当時の担任の先生が、

「この高校なら推薦で入れるぞ」

と勧めてくれた他の工業高校に入学することに。

あまり深く考えてもおらず、
突然提出書類にハンコを押してくれと言われた両親は、
とても驚いていました。
   
進学した工業高校は建築とは関係のない、
機械科・電子科・電子機械科などがあり、
私は電子機械科に入学。

これもまた理由があったわけではなく、
この中では電子機械が一番良いと勧められたから。

こんな調子で進学したので、
すぐに学校の授業に関心が無くなり、
二年生への進級にも気持ちが薄れました。

人生の分かれ道

そんな一年生の春休みのこと。

当時の担任の先生だった松本先生が、
本当に親身になって指導してくれました。

「おまえのやりたい事が本当にやりたい事なのか体験してこい。
 学校には俺が許したと言ってやる。」

と二年生への進級の道を残しながら、
禁止されていたアルバイトを勧めてくれたのです。

おそらく松本先生と両親の間で話し合いがあったのでしょう。

アルバイト先は、
母の知り合いが勤める工務店でした。

大工工事のアルバイトは一つ一つが新鮮で、
見ることやること全て楽しかったので、
なんの迷いもなく、

「学校を辞めて、このままバイトを続ける」

と決断しました。

進級した同級生から、

「本当に辞めたのか?お前の席あるぞ」

と言われたこともありましたが、
その後、松本先生が、

「嶋田は進みたい道を見つけて辞めた」

と皆に伝えてくれたようです。

大工への一歩

仕事場まで片道7、8キロを、
自転車で毎日通いました。

ただ、まだまだ子どもで、
時々休みたくなる日もあり、

「学校と仕事はちがうぞ!」

「休みたいなんていう理由は無い!」

「遅刻する時は事前に連絡しろ!」

と事あるごとに怒られながら、
少しずつ社会を学んでいきました。

その後、オートバイの免許を取得し、
通勤が楽になったのですが、
同時に遊びの行動範囲も広くなり、
オートバイの魅力に憑りつかれていきました。

最初に買ったバイクはアプリリアという、
イタリアのオートバイメーカーのもの。

それから1年後には中型免許を取得し、
KawasakiZRX400に乗り換え。

現在はkawasakiZ400FXに乗っていて、
今でもオートバイが大好きです。

話を戻しますが、
実は高校の担任だった松本先生、

働きながら学校へ通えるように

と○○工業高校の建築科に、
編入手続きをしてくれていました。

高校進学の時、
両親が勧めてくれた○○工業高校の建築科、
そこの定時制です。

ただし時期的な問題からか、
1年間は仕事だけをして、
翌年から学校へ通うという条件での編入。

4月になり、
建築科の学校へ通い始めるころ、


ある事件が・・・・・・

大事故

その日、木材を切り出す作業をしていた私。

ふと丸ノコの電気コードが目に入りました。

このままじゃコードを切っちゃうな

そう思いコードを払いのけようとした時、

「バチン!」

と音がしました。

あっ!コードを切っちゃった!

すぐに確認すると、
切ったのはコードではなく自分の手。

一瞬の出来事。

軍手が真っ赤に染まっていきます。

急いで兄弟子のところへ行き手を見せると、
肘下あたりをきつく縛り止血し、
すぐに近くの病院まで運んでくれました。

しかしその病院では対処できず、
救急車で総合病院へ搬送。

段々と気持ち悪くなり、
めまいも感じ、
救急車内のことは記憶にありません。

意識が戻ったのは手術が終わってから。

左手親指の付け根から手首まで、
約20針を縫う傷でした。

丸ノコで切ったため、
傷口の損傷が激しく、
骨の補強と固定、
指の曲げ伸ばしをする腱の接合、
切れてしまった神経の処理と、
時間のかかる手術だったそうです。

見失った人生

そこから入院生活約2ヶ月。

退院してもまだ手は動かないため、
仕事はできず、
そこからリハビリ。

左手以外は至って元気だったので、
リハビリで家と病院の行き来だけでいられるはずもなく、
遊びにでかけるようになりました。

しかし多くの同級生は高校に通っています。

なので日中の遊び相手は、
高校に進学せずにバイトをしているか、
仕事もしていない子たち。

昼夜問わず一緒に遊び回る日々。

病院から仕事復帰の許可が出るまでの半年間、
そんな生活が続きました。

その後、仕事に復帰し、
日常生活が戻ってきたのですが、
仕事が終わると遊びに行く毎日の繰り返しで、
定時制高校にもだんだん行かなくなり中退。

そしてついには仕事も辞めることに。

その後の18歳から20歳の2年間は、
私の人生の空白期間です。

退院後から毎日一緒にいた仲間たちと身勝手に行動し、
お世話になっていた工務店の社長や兄弟子たち、
そして両親に本当に迷惑をかけてしまいました。

出会いと再出発

浜松市にある渋川という山あいの小さな集落。

そこには山に囲まれた田んぼがあり、
その中にポツンと水車小屋があります。

サワガニもいるきれいな小川が流れ、
とても癒やされるその風景が好きだった私は、
バイクで何度もそこを訪れていました。


ある日、髪を切ろうと馴染みの近所の床屋さんへ。

髪を切ってもらっているとマスターが、

「豊くん、今なにしてるの?」

と。

「なにも・・・・・・」

そう答えるしかなかった私に、

「お客さんに大工さんがいるんだけど、
 若い子が欲しいって言ってたから相談してみる?」

"大工"という言葉に無意識に反応したのですが、
自らその道を離れてしまったという事実に対し、
不安を感じていました。

何も返事を返せないでいるとマスターが、

「渋川に水車があるの知ってる?」

私が知っていると伝えると、

「あの水車を造った人だよ」

視界が開けた感じがしました。

そんな仕事がしたい!そこで働きたい!

一瞬で不安よりも期待と興味が勝り、
すぐさま紹介して欲しいとお願いをしました。

翌日、親方が家を訪ねてきてくれ、
私が玄関に出ていくと、


「お前か!大工になりたいってヤツは!」

「住み込みか?通いか?」

「若い衆がもったいねえ!明日からこい!」

三言で面接終了(笑)
 
次の日から親方のもとで再出発。

親方は根っからの職人で厳しい人。

「小僧が職人と一緒にいっぷくするんじゃねえ!」

「休憩してる暇があるなら刃物を砥げ!」

そう叱られてばかりで、
10時、昼、3時の休憩時間になると、
言われた通り道具の刃を砥いでばかりいました。

家に帰ってからも砥ぐ練習。

しかしどれだけ砥いでも、
褒めてもらえたことはありませんでした。

そんな修行が続く中、
初めて和室を造らせてもらった時のことです。

自分なりに上手くできたと思い、

明日親方はなんて言うかな

とちょっと楽しみにしていました。

次の日、親方がやってきて、
さらっと部屋を見渡しただけで一言、

「まだまだだな」

どこが悪いのか私はすぐに聞きました。

「柱とトメをよく見てみろ」 

親方は帰っていきました。

言われた部分を確認してみると、
1ミリあるかどうか、
わずかにズレていました。

悔しい・・・・・・

でもズレているのは事実。

一緒に作業していたベテランの大工からは、

「褒められることはないぞ。
 全部やり直しって言われなかったなら一応合格だろう。」

と言われました。

親方や先輩たちはどんな仕事をしているんだろう?

そこから他人の仕事をよく見るようになりました。

それまで見ていなかった訳ではありませんが、
見方が変わったのです。

見習っていう言葉は本当に字のとおり。

学校の勉強のように、
こうやれば答えが出るといったことは、
一つも教えてくれません。

試行錯誤しながら、
自分でやり方を見つけるしかない。

親方にダメ出しされるたびに、

ちくしょう!

このやろう!

正直そう思っていました。

でも同時に、

バシッとおさめて黙らせてやる!

そんな気持ちも湧き上がっていました。

この気持ちが自分の大工技術を磨き上げてくれて、
今があると思っています。

親方には20歳からの10年間お世話になり、
仕事以外にも色々なことを教えてもらい、
今では感謝の気持ちしかありません。

正に親のような存在です。

挑戦

30歳になった時、
親方の元を離れて独立しました。

独立は親方が嫌になったわけでも、
辞めざるを得ない理由があったわけでもありません。

大工として自分がどれだけ通用するか

それが知りたかったのです。

自分の力で何かを切り開きたい

それまでの人生で経験してこなかった、
挑戦の気持ちです。

周りの人々からは反対されました。

先の仕事が決まっているわけではなく、
何も見えていませんでした。

けれども、

どうにかなる

そんな気がして、
前進しか考えられなかったのです。

独立してしばらく経ったころ、
幸運にも新築の依頼が入りました。

以前にリフォーム工事をしたお客様からの紹介でした。

そのリフォームは規模の大きな工事で、
長い期間毎日お会いしていたので、
ご家族とも親しくなり、

「嶋ちゃん」

と呼ばれていました。

お子様もなついてくれ、
休憩中に遊んだり、
一緒にお菓子をたべたり。

その頃は3歳だったでしょうか、
10年以上経った今でも時々、

「嶋ちゃん元気?」

なんて電話をくれます。

そんなご家族からの紹介が最初の一棟。

本当に嬉しかった。

この現場から順調に仕事がまわり始めました。

この現場に出入りをしていた業者が、
設計事務所や住宅会社などを紹介してくれて、
次々と仕事が増えていきました。

自分が大工として必要とされている

ただただそれが嬉しくて、
ありがたくて、
声をかけられた仕事はとにかく請ける。

毎日夜遅くまで、
日曜、祝日の休みも関係なく働きました。

その後人員も増え、
今では4名の大工職人が常駐しています。

そしてその中の一人は、
大ケガをした時に病院へ連れて行ってくれた兄弟子です。

家づくりへの想い

毎日家づくりにはげむ中で、
ただ家を建てるのではなく、
何のために家を建てるのかが大切だと気づきました。

家づくりを通して住まい手の何気ない日常(幸せ)を守ること

それが私の使命だと。

しかし同時に現実とのギャップも感じました。

お客様に直接関われていないではないか

それまでの仕事は、
設計事務所や住宅会社からの依頼がほとんどで、
お客様と接することはまずありませんでした。

大工の技術は木材を生かすことにあり、
木材の扱い方ひとつで家の寿命や仕上がり、
住み心地が大きく影響を受けます。

家の寿命を守るということは、
そこに住まう家族を守るということ。

ならば大工の技術は、

住まい手に安心できる暮らしを提供する

ために使うべきものであって、
設計事務所や住宅会社のために使うものではない。

だから自分の使命を果たすためには、

直接お客様と対話をし

その想いを受けて

自分たちの手で家づくりをする

という必要がある。

そう考え、

『建築工舎 豊』

が新たに進むべき方向を定め、
会社の環境を整えました。

皆に幸せになって欲しい

私たちはその想いを大切に、
お客様に寄り添った家づくりを提供していきます。

建築工舎 豊 代表 嶋田豊

知って得する魔法の「小冊子」限定プレゼント無料

  • 小冊子
  • イベント